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人生朝露

人生朝露

荘子と寓言。

さて、

悪かったわね!
荘子なんですが・・・

予め言っておきますと、今回の更新分は、『荘子』という書物に、本当に興味を持たれた方は読まない方がいいかも知れません。それは、以下の文章は荘子のメッセージの中でも重要な部分であって、本来なら、自分で読み解くべきものだからです。『荘子』という書物がもたらす恩恵の有り難味は、ここに一つの「答え」が見出せるからでして・・・もちろん、この文章がなくても気づく人は気づくことですし、私もその「予感」はありました。

ただし、『荘子』ほど個人差をもたらす書物もないだろうということと、

Heidegger!
ハイデガーが荘子をパクッたこととを勘案して、やはり、書くべきかなと。

『荘子』の後半、寓言篇にこうあります。

Zhuangzi

『寓言十九、重言十七、卮言日出、和以天倪。寓言十九、藉外論之。親父不為其子媒。親父譽之、不若非其父者也。非吾罪也、人之罪也。與己同則應、不與己同則反、同於己為是之、異於己為非之。重言十七、所以已言也、是為耆艾。年先矣、而無經緯本末以期年耆者、是非先也。人而無以先人、無人道也。人而無人道、是之謂陳人。』(「荘子」寓言第二十七)
→私が語っているのは、寓言(作り話)が十のうち九。重言(有名人の言葉)を用いるのが十のうち七だ。無心のうちに日々こぼれ出た卮言は、人の是非の判断とは相容れない天との有様を図るためのものだ。十のうち九を占める寓言というのは、他の事柄によって「道(Tao)」を論じるために使った。自分の息子の媒酌人に、親がなってしまうよりも、他人に自分の息子を褒めてもらう方がいいのと同じようなことだ。寓言をあえて使っているのは、私の罪ではない。読み手である人の罪だ。人間は、自分と同じ立場にいる人の意見に従い、違う立場にいる人間の意見に耳を貸そうとしない。自分の考えに間違いはないと信じ込み、自分と違う考えは間違いだと決め込みがちだ。十のうち七を占める重言というのは、是非にとらわれた無駄な議論を止めさせるためで、同時に先人に敬意を表するためだ。ただし、年長であるというだけで、道理を弁えないような者に対しての敬意ではない。人の道を踏み外して年長面(づら)しているのは、ただ古いだけの陳腐なガラクタにすぎない。

・・・荘子のネタバレなんですよ。
雑篇なんですが、これは荘子本人の筆によるものと私は考えます。ヴィジョンや方法論を提示するだけにとどめて、最終的な「答えに至る思考」を読者に任せるという姿勢です。

「なぜ、わけの分からない寓話を書いているのか?」

それは、「寓話」という形でなければ表現できず、理解されないものがあるから、ということです。そして、文明の縁から見て、「イデオロギー」の出現を感じたんでしょう。ほとんど荘子に命令形が見られないのは、言葉によって表現できないものを寓言によって守り抜こうとしているというだけでなく、イデオロギーや固定概念や先入観によって「本質的なもの」が排撃されることを嫌ったということです。だから荘子の言葉には志向性がほとんどないんです。だから『荘子』という書物はわかりにくいんです。ただ、こうあるとしかない。これを連続して書いているわけです。現代でいうところの、現象学的手法なんですよ(笑)。フィールドが同じなんです。20世紀の哲学と。

参照:Wikipedia 現象学
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E8%B1%A1%E5%AD%A6

言葉に志向性を持たせないがゆえに、その主張は非常に弱いものです。しかし、逆に、荘子の思想は、あらゆる立場に属する人間に対して、ある一定の了解を得ることができる、という驚くべき特性を持ちます。すなわち、荘子の言葉には好き嫌いがないんです。なぜなら、お説教がないし、根源的な「生きること」や「心の安らぎ」というものを求めない人間はいないから。生きることを否定する人間や、心の安らぎを求めない人間は、考えることはなく、思想を持つ必要はないから。イデオロギーと関係ないんです。むしろその対立に疲れてしまった人が読んで惚れ込むというパターンも多いかと。

・・・そして、ここが重要なんですが、「荘子」の寓話をほぼ全編を読んで、この文章に出会ったとき、荘子につまずいちゃった人は、感動してしまう思います。

「非吾罪也、人之罪也。」(寓言をあえて使っているのは、私の罪ではない。読み手である人の罪だ。)

何らかの固定観念にとらわれて、悩みを抱えている自分自身に荘子が書き残している。ここで、今までの寓話の一つ一つが星々のように配置されていることを知り、その結節点に「自分」を感じてしまうということです。すなわち、「自我」の構成要素の大事な部分をほとんどなぞっているんですよ。荘子は。多分、そこまで信じ込まないと禅宗の発展はなかったと思います。

・・・したがって、「なぜ、荘子がそのような文章を、そこに載せたのか」という配置が非常に重要なことになります。その意図を拾い上げていく、ということです。見えるか見えないかの星を辿るような作業をすると、何かを感じるわけです。そして、かなりの人が荘子にとりこまれて、一定の方向に目覚めてしまうんです。で、21世紀になったというのに、私は馬鹿の一員になっちゃいまして、これにつまずいて、おかしなことになってしまったんです。まさに「ダーマ(dharma・達磨)の塔」から足を滑らすかのように(笑)。心と体に反応があったんですよ。「そんなバカな」と呟きましたよ(笑)。

『卮言日出、和以天倪、因以曼衍、所以窮年。不言則齊、齊與言不齊、言與齊不齊也、故曰無言。言無言、終身言、未嘗言。終身不言、未嘗不言。有自也而可、有自也而不可。有自也而然、有自也而不然。惡乎然?然於然。惡乎不然?不然於不然。惡乎可?可於可。惡乎不可?不可於不可。物固有所然、物固有所可、無物不然、無物不可。非卮言日出、和以天倪、孰得其久。萬物皆種也、以不同形相禪、始卒若環、莫得其倫、是謂天均。天均者、天倪也。』(「荘子」寓言 第二十七)
→日々口をついて出てくる卮言は、天の有様と調和し、しがらみのない世界に身をおいて、命を全うするためのものだ。「同じものだ」、「違うものだ」という言葉にとらわれた論争そのものが、天のもたらす有様とかけ離れていく。だから、かつての至人といわれる人は、是非の判断を決め付けたりしなかった。この世の有様は、是非の論理に囚われていては、一生しゃべり続けても説明できるものではなく、たとえ、しゃべらなくとも(言葉で物を考えている以上は)、結果は同じことだ。人間の視点に立って物事を考えるのに、「良いもの」「悪いもの」「これはこうだ(然り)と思うもの」「これはこうではない(然らざる)と思うもの」と決めつけて考えたがるが、何を以って「良い」「悪い」「こうだ」「こうではない」と考えているのか?物事というのは、どう考えたところで、元からそうあり、そうあるべき場所におちつくようになっているのだ。出来事は、言葉で考えている人間の思い込みとは、往々にして違う結果になってしまうものなのだ。(賢き人よ、そうではないか?)。是非の論理ばかりではなく、卮言によって、和を以って天の有様を語らねば、この世の長い歳月の間の営みを、誰が理解できよう?万物はそれぞれに種(違い)があり、形質が違うが故に、お互いに関係しあっている。その始まりも、その終わりも、まるで輪のように連続していて分けられない。これに一つの枠をはめることはできない。天の調和というものは、(人間の考える是非の論理とは別次元の)宇宙の原理であるからだ。

・・・ここが、聖徳太子の読み込んだ十七条憲法の第十条の「耳輪」のネタ元でしょう。

参照:当ブログ 聖徳太子と荘子。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5004

おそらく・・ですが、斉物論第二との関係、引用されている箇所の飛躍から考えて、当初、日本に輸入された「荘子」という書物では、この寓言第二十七は、かなり前のほうにあったと思われます。

Heidegger!
ハイデガーがパクッた意味が、分かります?

今日はこの辺で。


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